B2-宇多天皇と菅原道真(北野天満宮編)

 














G3-みちょぱ東の国支局 
京都府京都市上京区馬喰町
創建 天暦元年(947年)平安時代
太政大臣正一位 菅原朝臣道真公
相殿 東座 中将殿
西座 吉祥女(菅公北の方)
菅原道真 誕生、西暦845年8月1日 死亡 西暦903年3月26日,
菅原道真の妻 島田宣来子しまだの のぶきこ
宇多天皇の女御となった菅原衍子(えんし)らを生む

摂末社
火之御子社 - 祭神:火雷神
老松社 - 祭神:島田忠臣翁 宣来子(のぶきこ)の祖父
白太夫社 - 祭神:度会春彦翁 道真の養育係 太宰府まで同行
福部社 - 祭神:十川能福 舎人、牛車を引く牛を世話 ここでは牛の神
    を暗示するためであろうと思われる→ 牛頭天皇
地主社 - 祭神:天神地祇、相殿祭神:敦実親王・斎世親王・源英明朝臣。
    敦実親王、宇多天皇第8皇子
    斉世親王(ときよしんのう)仁和(にんな)2年生まれ。
    母は橘広相(たちばなの-ひろみ)の娘義子。妃は菅原道真(みちざね)の娘
    源英明朝臣(みなもと の ふさあきら/つねよし)は、宇多天皇の孫。
    斉世親王の長男。官位は従四位上・左近衛中将。
 
菅原衍子 すがわらの-えんし
宇多天皇の女御(にょうご)。 菅原道真(みちざね)の娘。母は島田

忠臣(ただおみ)の娘宣来子(のぶきこ)









坂出市HPより赤傍線筆者


















「ねっこのえくり」さんHPより転記し
黒字部分付加
源英明(みなもとのふさあきら/つねよし)
宇多天皇の孫、斉親王の長男、左近衛中将
宇多天皇と菅原家家系図を見ると、両家に
深い縁戚関係があったことが解る

菅原氏の前身は、天穂日命の子孫で、野見宿禰(古墳時代
の豪族)を家祖とし、葬送を職掌としている土師氏である。
天応元年(781年)に古人(ふるひと)が改姓を申し出たこ
とから菅原姓を称するようになった。「菅原」の名は大和
国菅原邑にちなむ。

農耕開発と古墳
 深草地域はいち早く水稲耕作の始まったところで、稲荷山
の西南に位置する深草弥生遺跡からは,大量の出土物に混じ
って鍬や鋤など多様な木製農具が出土し,アラガシやイチイ
ガシのような堅い材木が使われており,精巧な木器をつくる
ため,すでに鉄器が使われていたと考えられている。深草弥
生遺跡から約2キロにある鳥羽離宮の発掘現場からは, 弥生時
代から飛鳥・奈良時代の大集落跡も発見されている。5世紀に
はいると稲荷山西麓には, 仁明陵北方古墳,番神山古墳などの
前方後円墳,大岩山南麓には黄金塚1号墳,2号墳が築かれて
いることから,伏見一帯を支配した首長が存在していたこと
がわかる。弥生中期に先住したのは紀氏・土師氏・久我氏な
どの古代豪族だが,古墳を築いたのは4~6世紀にかけて渡来
した秦一族ではないかといわれている。
京都市伏見区役所 「伏見区の歴史」より抜粋

大宰府と貿易
遣唐使の目的は中国への朝貢、宗教や学問などの新文化の収得でも
あったが、主たる目的は貿易であった。894年菅公の建議で遣唐使
は廃止されたが、その理由は唐商人が博多にぞくぞくと渡来するので、
莫大な経費をかけ、多くの犠牲を払って派遣しなくても貿易ができる
ようになったからである。唐船の来航は博多港のみに限られていた。
唐商人は身元調べや積荷の検査の後、鴻臚館に滞在した。鴻臚館は外
国使節の客館であったのが奈良時代後半から唐商人の宿泊所に変り、
大宰府役人の貿易管理事務所になっていった。大宰府の報告を受けた
朝廷は、唐物交易使を派遣し、お上の御用品をごっそり買い上げ、残り
を市中の権門勢家に払い下げていた。唐物交易使は909年までで、それ
以降は大宰府役人に任せられた。

当時の輸入品:綾錦等の織物、香料、薬品、書画、経典、孔雀、オウム、
陶器当時の輸出品:砂金、真綿、水銀、生糸大宰府役人は密貿易の監視人
であったはずなのに、いつのまにか賄賂を取ることを覚え、横流しの張本
人になり、あっというまに堕落してしまった。(大宰権帥の藤原伊房、筑紫
国司の藤原仲秋、大宰大弐の藤原惟憲)平安末期になると貿易は鴻臚館がそ
びえる荒津港から博多津に移って大荘園との直接取り引きになっていった。
太宰府安楽寺(天満宮)や筥崎宮、観世音寺、宇佐八幡宮など博多付近に荘
園を持ち、私貿易で栄えていった。
「ゆうこさんのびっくりホームページ」より掲載
これをみると当時の太宰府が左遷場所でないことが良くわかる
菅原道真の領地が和泉市桑原にあったようだが、すると貿易品目か生糸で
あった可能性が高く、太宰府がのちに荘園単位で貿易が可能となったことか
ら、菅原道真がこの機を逃すとはとても思えない。左遷された人物にしては
その影響力並みではない。

今風に言えば菅原財閥である。その財力を活かして宇多天皇をバックアップ
宇多源氏の資金源となった。 
①秦氏、土師氏由来の技術者集団、土木や鉱山関係
②物部氏由来の戦闘集団
そして新たなる新天地を目指して三河武士を中心とする東国、東北進出が始ま
った。と思えるのである。ここ太田市の歴史も理解しやすくなる。



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