B2-宇多天皇と菅原道真(桐生天満宮編)
国重要伝統的建造物群保存地区 県重要文化財 桐生総鎮守
→G3-みちょぱ東の国支局
御祭神
天穂日命
菅原氏の前身は、天穂日命の子孫で、野見宿禰を家祖とし、
葬送を職掌としている土師氏である。天応元年(781年)に
古人が改姓を申し出たことから菅原姓を称するようになった。
「菅原」の名は大和国菅原邑にちなむ。
名前の「ホヒ」を「穂霊」の意味として「火日」の意味として
太陽神とする説がある。
この説を正しいとすると、三本足のヤタガラスやオオカミの
太陽神説が浮上し熊野信仰がうかがえる
ご神徳
農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神などとし
て信仰されており、旧出雲国内だけでなく日本各地で祀られ
ている。
菅原道真公
祓戸四柱
瀬織津姫神 謎多き縄文の女神 機織りの女神 例えれば奴奈川
姫ヒスイの女神である。大国主系海流に乗ってきた
女神である。エキサイトブログ「追跡アマミキヨ」
に詳しい
速開都姫神 川上にいる瀬織津比売神によって海に流された罪
穢を飲み込む神
気吹戸主神 海原に強風を生み出し罪穢を吹き払う神とされる。 速佐須良姫神 気吹戸主が風によって運んだ罪や穢けがれを根の
国へ持って行って消し去る
鎮座地 桐生市天神町一丁目2-1
別名 貴龍天神
創建 社伝では景行天皇の時代(71年 – 130年)に上毛野国造
が天穂日命を祀る神社として創建されたと伝えられ、当初は礒部
明神といった。南北朝時代初期に桐生綱元(桐生氏の祖)が現在
の所在地に移し、菅原道真を合祀して天満宮となった。江戸時代
には徳川家の祈願所となっていた。現在の社殿は1789年に建造さ
れたものである。
Wikipediaより
御諸別王(みもろわけのみこ、生没年不詳)は、『日本書紀』等に伝わる(王族)。
豊城入彦命(崇神天皇皇子)の三世孫で毛野氏の祖。『日本書紀』
豊城入彦命(崇神天皇皇子)の三世孫で毛野氏の祖。『日本書紀』
にのみ王の尊号で表記され、他文献では大御諸別命、御諸別命、
弥母里別命(みもりわけのみこと)と命の尊号で表記される。
後裔氏族『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。皇別
摂津国 韓矢田部造 - 上毛野朝臣同祖。豊城入彦命の後。三世孫弥
母里別命孫の現古君、(中略)、因茲賜韓矢田部造姓。
皇別 和泉国 珍県主 - 佐代公同祖。豊城入彦命三世孫の御諸別命の後。
皇別 和泉国 葛原部 - 佐代公同祖。豊城入彦命三世孫の大御諸別命の後。
景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)
第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日)。皇別 和泉国 珍県主 - 佐代公同祖。豊城入彦命三世孫の御諸別命の後。
皇別 和泉国 葛原部 - 佐代公同祖。豊城入彦命三世孫の大御諸別命の後。
『日本書紀』での名は大足彦忍代別天皇。日本武尊(ヤマトタケル)
の父。
上毛野氏(かみつけのうじ、姓は君)。天武天皇13年(684年)に朝臣
を賜った。東国統治を担当し、しばしば蝦夷と交戦した。古代、香取海
に注ぐ毛野川流域には、大和から派遣された、崇神天皇の皇子豊城入彦
命を祖とし出雲神を祀る一大豪族が毛野国(けののくに)を形成し、そ
の後毛野国は上毛野国と下毛野国(下野国)に分割された。古来より上
毛野国は江戸湾に注ぐ古利根川流域であったが利根川東遷事業により毛
野川を合わせ大海・太平洋に注ぐ利根川流域地域となり、領域は現在の
群馬県とほぼ同じである。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)景行天皇の子
即位25年7月から27年2月、武内宿禰に北陸・東方諸国を視察させて豊かな土地を発見する。日本武尊が東征に向かうこととなり、途中の伊勢神宮
で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣を授かった。陸奥国に
入り、戦わずして蝦夷を平定。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐
国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚。そ
の後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。日本武
尊はそのまま伊勢国に入るが能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くな
り30歳で崩御、埋葬された後に白鳥となって飛び去った。途中で舞い降り
た大和国と河内国にも白鳥陵が造られた。出発から三年後のことである。
天皇は日本武尊の死を深く嘆き悲しんだ。
即位53年、日本武尊を追慕して東国巡幸に出る。まず伊勢に入り東海を巡
即位53年、日本武尊を追慕して東国巡幸に出る。まず伊勢に入り東海を巡
って10月に上総国に到着、12月に東国から戻って伊勢に滞在、翌年9月に
纒向宮に帰った。
即位55年、叔父である豊城命の子の彦狭島王を東山道十五国の都督とした。
即位55年、叔父である豊城命の子の彦狭島王を東山道十五国の都督とした。
しかし任地に向かう途上、春日の穴咋村で亡くなってしまった。そこで翌年
に改めて彦狭島王の子の御諸別王を派遣した。
即位58年に近江国に行幸。志賀高穴穂宮に滞在すること3年。『古事記』は
即位58年に近江国に行幸。志賀高穴穂宮に滞在すること3年。『古事記』は
天皇の東国巡幸、近江行幸を記していない。
重要ポイント
重要ポイント
*国造(くにのみやっこ)
5世紀末~6世紀初,大化の改新以前における世襲制の地方官。地方の豪族で、朝廷から任命されてその地方を統治した。大化の改新以後は廃止されたが、多
くは郡司となってその国の神事もつかさどった。
*景行天皇 在位、景行天皇元(71) 7 . 11 ~景行天皇60(130) 11. 7
任所而早薨。故、汝專領東国。」是以、御諸別王、承天皇命且欲成父業、則行
治之、早得善政。時、蝦夷騷動。卽舉兵而擊焉、時蝦夷首帥足振邊・大羽振邊・
遠津闇男邊等、叩頭而來之、頓首受罪、盡獻其地。因以、免降者而誅不服、是
以東久之無事焉。由是、其子孫、於今有東国。
*景行天皇56年(西暦126年)弥生時代後期、弥生時代(紀元前3世紀-3世紀)
*彦狭島王(ひこさしまおう)、子;御諸別命 祖父:豊城入彦命*豊城入彦命;第10代崇神天皇皇子である。上毛野君や下毛野君の始祖とされる。
豊城命は「御諸山(みもろやま:三輪山)に登り、東に向かって槍(ほこ)や 刀を振り回す夢を見たと答えたので東国遠征の任につかせた。御諸山(三輪山
)は出雲系大国主系と言われている
墳時代の豪族である。
*土師氏(はじし)と秦氏(はたし、はだし)は鉱山技術、土器製造、土木工事、葬送
の儀式など同一分野で専門とし、居住地も重なっており、土師氏は秦氏の後裔とは
思われている。
以後社伝から見る歴史変遷
縄文、弥生のころ 天穂日命、瀬織津姫
古墳時代 景行天皇 御諸別王 国造の時代
律令時代 郡家の時代
武家の時代