B2-太田市周辺と宮家

 

 

 

私の出身は茨城である。在郷当時祖父から家系は宇多天皇に

繋がると聞かされていた。

それが遠く内陸の地、太田市である人から敦実親王の末裔で

あるとも聞かされた。それまで全く関心のなかったことが糸

を繋ごうとする方向に向き始めたのである。私は新田氏の女

系の血縁をももっている。もとより歴史には関心があった私

は、それなら調べてみようと思ったのである。

 

茨城の霞ケ浦周辺が私の故郷である。離れすぎてはいないか

の疑問は当たらない。縄文海進の時には板倉が海岸である。

霞ケ浦は内海としてあった。内海当時の鹿島神宮と香取神宮

の位置に、着目すると、大和朝廷の影響が強いという考え方

に強い違和感を感じる。鹿島灘の沖合は、暖流と寒流がぶつ

かり合う場所で暖流は沖合を目指して陸地を離れて行く

現在の鹿島、香取神社とも古代には位置が違っていた縄文文

化の強い神社であった。私は大和朝廷以前には、東北海民の

居住地であったのではないかと考える。古代東北は豊かな地

であったのだ。それは植物学の植生の研究でもわかるように

関東以北は関西に比べて土地が豊かであった。群馬県は古代

は蝦夷の地である。群馬県の民話を調べると良く解かる。特

に山岳部には古い民話が残されている。武装集団とのいざこ

ざ話も図書館で借りては読んでいた。兎に角逆転話が多いの

である。大和朝廷の手柄話ばかりが聞こえるが、真実は逆の

ようにも見える。なぜなら英雄たちの系譜に蝦夷出身の多い

ことよ。

 

話が長くなってしまった。

そこで、新田氏に関係する遺跡を探ってみよう。重要な手が

かりがあるかも知れない。

 

①宇多天皇仁和寺との接点

最初に思い浮かぶは、敦実親王との関わり。

寺井廃寺、新田郡衙

寺井町から新田小金井町付近にかけては、新田郡衙である天良七堂遺跡や古

代の官道である東山道駅路・入谷遺跡が存在し、寺井廃寺を含め新田郡官衙

(役所)を形成していました。平成20年7月28日には新田郡衙の中心部分が

「上野国新田郡庁跡(こうづけのくににったぐんちょうあと)」として国史跡

に指定されました。  太田市教育委員会

上強戸遺跡群 要約
遺跡は太田市の北部に位置し、金山丘陵北西部・八王子丘陵南西部に広がる平

野地勢の縁部に立地する。

沖積低地では古墳時代から中世の各水田跡が発見され、\0・\0区を中心とする

区域には、洪水被災により埋没した水田跡が発見されている。また、古墳前期

の水田跡と溝跡からは弓や又鍬が、奈良時代の溝跡では馬鍬・田下駄・車輪部

材が出土した。\0区の微高地上では、おびただしい数の柱穴跡・溝状遺構が発

見されている。

この中で、室町時代前半期と考えられる鍛冶工房の発見がある。この鍛冶工房

では、日本刀の生産が確実視される。鍛冶関連の遺物とともに、多量の大形砥

石が出土している。日本刀でも、いわゆる、「古刀」と呼ばれる時期の鍛冶工

房は、日本刀剣史の解明に寄与するであろう。 全国遺跡報告総覧

 

上記の文章から見ても、強戸地区が鉄製産に関わり、道具類、武器製造に関わ

っていたことが解る。

補足

天良町テンラチョウと表記されるが、寺テラ町とも読める。古代において

寺とは行政官庁をいみする。そうなると郡家を補佐する官僚の居住地域

となり地域性がよく解る。

二ツ山古墳一号墳、二号墳とも前方後円墳築造年代は6世紀後半、東毛

地域でも最大規模で相当有力豪族の墓であった。一号墳からは石室から

金銅製の双龍文の環頭太刀把頭や圭頭把頭を始めとして様々な遺物が出土

し墳丘からは人物・鳥・馬・家・靱・鞆など様々な形象埴輪が出土

太田市教育委員会

成塚町にはキツネの昔話が残されており、鉄製産の遺跡や水田跡の

遺跡も多く発見されている

6世紀後半とは古墳時代から飛鳥時代と変わる時期である

また河内国の尾張氏が天皇家との繋がりをもった時期でもある

女帝推古天皇の時代でもありの摂政聖徳太子の叔母にあたる

推古天皇と聖徳太子 2018/04/06

7世紀の中頃から仏教寺院が豪族によってつくられ、それまでの

前方後円噴は作られなくなる。しかしそれまでは大和朝廷の影響下

にあった豪族が支配していたとみられる

天神山古墳 築造時期5世紀前半ー中ごろ 東日本第一の規模

前方後円墳 恐らくは朝廷とも関係の深い三河尾張氏か

寺井廃寺7世紀末 聖徳太子574年ー622年

古墳時代4世紀ー7世紀 東海地方から大開拓団

尾張氏 もともと海神族であった尾張氏は天皇の外戚となりながら

勢力を強め海沿いに、朝廷の東日本平定の主力となった

部隊となる。

西慶寺

太田市鳥山上町1426-1

各願山来迎院西慶寺は高野山真言宗の寺院です。寺伝によれば、大同

2年(807)勝道上人の開山であり、新田義重の祈願所と伝えられる古寺

です。また、西慶寺は元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉攻めの際、不動

明王に加護を祈念、不動明王は山伏に姿を変え越後(新潟県)の新田一族

に挙兵を触れたという伝説のある「新田触不動尊」を安置する寺でもあ

ります。 太田市教育委員会

正法寺

脇屋山正法寺(わきやさんしょうぼうじ)は高野山真言宗の寺で、寺伝

によると、山城国醍醐寺開山の聖宝が源経基の請願を受けて延喜年間

(901~923)に開山し、古くは聖宝寺と呼んだと伝えられています。元暦

年間(1184~1185)に新田義重が堂塔を修理し、元弘年間(1331~1334)に

は脇屋義助が脇屋郷及び大般若経600巻を寄進したと伝えられ、脇屋氏の

菩提寺ともなり、境内には義助の遺髪塚があります。江戸時代に火災に

遭い、脇屋館跡のある観音免から移転したといわれています。 

太田市教育委員会

敦実親王(893-967)宇多天皇第八皇子

上記2寺だけみても敦実親王生誕以前、或いは存命中にも、源氏ゆかり

の寺が創建されている。

特に私は、強戸地区周辺地域の人々が、源氏武士団を支えていたよう

に思える。


 

北之庄公園 新田義貞生誕伝説の地

新田義貞御生誕之碑

太田市由良町字北之庄

他に反町館説、世良田新田館説、榛名町里見郷説がある。

台源氏館・伝新田義貞生誕地

新田政義が築き、新田義貞・脇屋義助生誕地と伝えられる館跡の

推定地で、円福寺一山絵図で「出丸要害之地」と描かれている部分

に相当すると考えられます。また、円福寺北東に隣接する方二町

(約二百m四方)の区画と推定する説もあります。

北之庄公園近くの台源氏館跡から、円福寺までの間で土地に縁の

ある方はいませんか。家がある。畑がある。墓地がある。公園

がある。史跡がある。等関連がある方は、調べてみると意外な

事実が見つかるものです。そこの土地に縁のある人は動きません。

千年経っても動きません。因みに円福寺は新田本宗家第4代の

新田政義(まさよし)が開基したと伝えられ、政義が京都御室

の仁和寺(にんなじ)から招いた阿闍梨静毫(あじゃりじょう

ごう)が開山(初代住職)といわれます。

 

円福寺 太田市大字別所字山越604

円福寺茶臼山古墳

宝泉(由良)台地の西端に造られた長さ168mの大前方後円墳です。

墳頂部や墳丘裾部は、後世の寺や神社等の建物を造った時に削られ

て、原形がそこなわれていますが、市内では天神山古墳に次いで第

2位、県内でも第3位の規模を誇っています。造られた時期は、5

世紀前半頃と考えられています。「宝泉茶臼山古墳」、「別所茶臼

山古墳」とも呼ばれます。平成12年11月1日に「新田荘遺跡」

として国から史跡指定を受けたことに伴い、県指定は解除されまし

た。 太田市教育委員会 説明文抜粋

 

12所神社 12神像

十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)は、国史跡「新田荘遺跡

(十二所神社境内)」内、円福寺本堂の西、茶臼山古墳の後円

部墳頂近くにあります。創建された時代は不明ですが、間口2間、

奥行3間の本殿の中に国常立尊(くにのとこたちのみこと)など

16体の神像が安置されています。ともに30㎝弱ほどの木彫一木

造りで、胡粉(ごふん)を塗った後に彩色がほどこされています。

16体のうち5体に正元元年(1259)銘があり、市の重要文化財に指定

されています。また、1体の背面上部に「阿岐(あき)天神」、

背面下部の左右に「右志者為阿闍梨静毫(あじゃりじょうごう)」

「現世安穏後世善処往生極楽也」、中央に「正元元年己未十月五日」

の刻銘があり、日付の下に花押(かおう)が刻まれています。

太田市教育委員会説明文 抜粋

 

上記説明文より、前方後円墳であることから大和朝廷の影響を

受けた豪族の墓であることが解かります。さらに強戸地区の古墳

を見ても、噴頂部にあるのは稲荷系の神社であると推論します。

神像の一つに「阿岐(あき)天神」と書かれている天神様を勝手に

ダキニ天(菅原道真公)と解釈。(「阿」を敬愛するの接頭語として)

冠稲荷神社の「聖天宮」を参考にすると、イザナミ、イザナギ神

そして中央に神武天皇(カムヤマトイワレビコ)の存在が思い浮かぶ

。神職は藤原氏(中臣氏)を想像。

 

余談になるが、長野、群馬は小林姓が全国一.二位を争う程多い

ようだ。以前冠稲荷神社で説明したように、聖天宮の神様のお

姿は「小林氏」の苗字の意味に近いと申し上げた。

 

新田氏を継承するカギとなる漢字

今はあまり聞かなくなったが、昔は言葉の後ろにーーー(ニィー)

とか(ルン)とかが付いていた。

恐らく「新」を留めよの意味が隠されていたのではないか。

私が聞き及んでいる言葉では、「すみやのーーーさん」隅が

隠されている。寓「ぐう」+ 飛躍すると思われるだろうが

寓を表音文字とするなら、郡家(ぐうけ)となる。ほかにこれに

関する様々な言い伝えから「すみやのーーーさん」とは、宮家

つまり郡家のーーーさんを指していると確信している。

次に新(にい)の付く苗字恐らく直系、新里(里のつく苗字)

新島(にいじま)直系、高里(たかさと)里見家、等

他に宮家に関する者では、白鳥伝説の倭建命(やまとたける)

別名ヤマトタケルの命、金属に関する神話が多い。鶴生田

、大鷲、高林(林は苗字小林のところで説明、倭建命)、

簡単に列記してみたが、太田市周辺は大和朝廷あるいは宮家

と非常に結びつきが強い。古代より何らかの力が働く、パワー

スポットではなかったのか、と思われる。複雑に絡み合った

家系があり、更に碓氷峠の三本足のカラス(かかあ)とそれを

取り締まる(おタカさま)と日本伝統の統治組織(天皇制)は

表天皇、裏天皇と複雑怪奇である。

あまりにも複雑なので、そして影響も大きすぎるので、

このページは終了とします。

メモ

秋津彦神社

広島県広島市安佐南区祇園2-33-21

ご祭神 安芸津彦命(あきつひこ)安芸津彦姫命(あきつひめ)

ご祭神について

安芸津彦命:安芸国の前身となる阿岐国初代国造・飽速玉命の祖先、

安芸の祖、飽速玉命が天湯津彦命(あまのゆつひこ)の5世孫である

とされることから同一視されることもある、天湯津彦命は天孫降臨

の時に附随した32神の一人
安芸津彦姫命:安芸津彦命の后

由緒

当社は、安芸津彦命並びに安芸津姫命を祀り、当初は青原に鎮座して

いたという。こちらの主祭神は安芸国の前身となる阿岐国の初代国造

である飽速玉命(あきはやたまのみこと)の祖先とされ、厳島神社の

兼帯七社の一つとされる。明治5年(1772年)に、社号を安芸津彦神社

と改名するまでは官幣社といって、当国の厳島神社の2月11日の初申

の神事の祭祀において紙布等を当社において清祓してから厳島神社へ

仕出し、旧幣を当社に納める慣例があったという。これにより、「官幣

社と称す」と古書に記されていたという。それだけ、当社は厳島神社

と非常に深い関係にあったとも言える。

『国造氏族は佐伯氏と伝えられ、厳島神社の神主となって以来、代々

世襲してきた

広島県西部を中心とした地域は、その昔、「安芸国」と呼ばれていま

した。安芸は古くは「阿岐」と書きましたが、その黎明期は国境も定

かではなく、詳しいことはわかっていません。
 ただ、神武東征の昔からこの地は有力な古代氏族に統治されていた

ことが知られています。この氏族こそ、太古の山陽道に君臨し、大和

政権からのちに「阿岐国造(あきのくにのみやつこ)」と呼ばれた

安芸国の遠祖たちです。

ところで飽速玉命は、皇室の神話である『古事記』や『日本書紀』に

その名がありません。そのため、阿岐国造も天皇家とは血縁のつなが

りをもたない地方豪族と考えられています。しかし彼らは、古代瀬戸

内に隆盛した雄族であり、大和政権の信頼厚く、蜜月の時代が長くつ

づいていたようです。それを裏付ける証拠は、平安中期、醍醐天皇の

命で編纂された『延喜式』にあります。

 

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