B2-義経の裏顔


 

頼朝、義経は異母兄弟。父親は源義朝

源頼朝(兄) 

義経と弁慶

義経(幼名牛若丸)は11歳の時に鞍馬寺へ預けられ、文武の修練

に励むこととなる。

父は義朝(よしとも)、父親の名前は子に継がせることが多いが、

なぜ兄頼朝に朝の字を、義経に義の字を与えたのか不思議で

ある。祖父は源為義、頼朝の母は由良御前、義経の母は常盤御前

なにか父義朝は、常盤御前の方を寵愛していたのではないか。

そんな気がする。それが兄弟の確執に繋がっていったのでは

ないか。

①牛若丸は天狗に剣術を習った。天狗と言えば猿田彦と言えば

物部氏、「神武朝より大王家に仕えた氏族で、元々は鉄器と兵器

の製造・管理を主に管掌していた氏族であったが、しだいに大伴

氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。」

「」内Wikipedia

更には

 兵法書『六韜(りくとう)』『三略(さんりゃく)』を陰陽師の鬼一

法眼(きいちほうげん)から譲り受けたという伝説がある。

鬼一法眼とは、陰陽師であるから「法」を取ると「鬼一眼」となる。

 

【鬼の伝説】「一つ目の鬼と神」鬼とたたら製鉄と神の繋がり

 

義経と言えば影武者伝説がある。

同じように影武者伝説があるのは、

木梨軽皇子

『古事記』によれば、允恭23年立太子するも、同母妹の軽大娘皇女

と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され

伊予国へ流される。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に

自害したといわれる(衣通姫伝説)

 允恭(いんぎょう)天皇の皇子。同母妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ)

との不倫の恋が発覚して、「古事記」では伊予の湯に流されたあと、

妹とともに自殺したとされ、「日本書紀」では穴穂命(あなほのみこと)

(=安康天皇)に囲まれて自殺したと伝えられている。木梨軽皇子

(きなしのかるのみこ)。  

軽部(かるべ)=允恭天皇太子木梨軽(きなしかる)皇子 

以上Wikipedia,他ネット検索

 

軽とは、銅のことを指すとは鉱物マニアには知られた事柄

さらに軽部という職能集団があった。木梨軽皇子は謹慎相姦で

追放され自殺したとなっているが、近親相姦は古代いくらでも

あったことでわざわざ取り上げなくても問題はない。

この近親相姦譚、何か別の象徴性を持たせているのではないか。

私は、銅の精錬と関わりがあると判断する。継ぎ足しである。

 

木梨軽皇子とは、秘密裏に銅の職能集団を統率していた人物

と言える。

 

同様に義経伝説にも金属職能集団の統率者としての顔が見え隠

れする。それが鞍馬の山岳宗教、修験者との結びつきである。

宇多天皇創始とする仁和寺もまた修験者の様相を見せている。

ここに私は天皇家と修験道(金属ネットワーク)の存在を確認する。

太田市はまさに天皇家の金属ネットワークの関東地区センター

であったに違いない。

義経の裏顔が多少なりとも見えたので、このページ終了

三菱重工TV-CM「カーボンニュートラルの旅人」篇

2022/11/11

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