B2-河内源氏と冠稲荷神社

 


 

秋の七草

OKA-P  萩と尾花

正五位上 宿窪明神と記されているとの説明である。

 

細谷、沢野地区は古墳も多く、古代から発展していたこと

が伺われ、興味深いところではある。

「無住の平坦部に、東海系の人々が移住し、各地に村をつくった。

これらの村々は、やがて統合されこの統率者を死後に葬ったのが

古墳で、市域でも約1,000基の古墳が造られています。」

太田市教育委員会 古墳時代の太田参照

(古墳時代とは 3世紀中頃 – 7世紀頃までの間)

 

石田川式土器の特徴を持つ土器の源 流は 、東 海 地 方 西 部 

にあるといわれています。つまり東海地方西部にあった土器

の文 化が、東 毛 地 域 をはじめとする関東地方へ波 及 した

と想定されています。このほかに東海地方東部や 近 畿地方 、

北 陸地方からもそれぞれの土器の文化が伝わったことが確認

されている。土器文化の波及は「モノ」や「技術」、「情報 」

など「文化」の伝播 であり、それは つまり「人」の移 動である

といえます。西 日 本や北陸から関東地方へ文物とともに多くの

人々 が流入してきたと考えられる。石田川式土器が作られたのは

古墳 時代前期頃(3世紀後半~4世紀代)といわれます。

それでは古墳時代前期の三河国とはどのような様相をしてい

たのでしょう

太田市教育委員会「土器からわかる人・社会の動き」参照

三河国の豪族尾張氏とは

【邪馬台国】天皇家と深い姻戚も 藤原氏と敵対。尾張氏 : 東海(5)

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【邪馬台国】天武天皇&尾張氏から見える女王国 壬申の乱: 東海(6)

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漂着した海神族がやがて尾張氏に発展して行く、天皇家とも関係

が深く清和源氏支流、宇多源氏支流とも、その勢力圏は重なって

いる。鉱山系色彩も強い。宇多天皇の仁和寺の近くには、伏見稲荷が

ある。太秦の地もあり秦氏との関係も強いように思われる

 

3世紀後半から4世紀代は沢野地区、細谷地区にとっても激

動の時代の始まりと言えるでしょう。

冠稲荷神社、その由来の中に宿窪明神という神様が出てくる。

読みは「やどくぼ」そうすると「やど」とは「谷戸」「谷地」

のことと関連がゆく。

 

夜刀神「常陸国風土記(行方郡の条)

継体天皇の御世、矢括氏麻多智(やはずのうじのまたち)という。
郡役所より西の谷の芦原を切り開き、新たに田を開墾した。
この時、夜刀神(やとのかみ)が群れが田の耕作を妨害した。

夜刀神というのはこの地に棲む蛇のことで、胴体は蛇だが頭に角

がある。麻多智は激怒し、甲鎧を身にまとうと手に杖を持ち、群

がる蛇を打ち据えては殺し追い払った。

 

この角のある蛇、日光戦場ヶ原の伝説にも出てくる。

一般に「水争い」と解釈されるが、水田を作るのには大量の土砂

が必要。そのため河川を利用して土砂を流し、埋め立てに用いるが

同時に砂鉄を採集したたら製鉄を行う。

注、継体天皇(450年ー531年)

夜刀神の伝説、継体天皇の御代の伝説とすると、開発が行われた

土地では、この様なトラブル発生があったと推察される。

 

アイヌ語では

トパットゥミとは、ある集落の人々が一団になって他の集落を襲い、

宝物などを奪うことである。 日本語では夜襲や群盗と訳される。

夜刀神とはアイヌのトパットゥミが連想される。香取神宮では

「ボーボー様祭り」という奇祭があるが、やはり先住民との交流

の様子が伺える。

 

次回、宿神  予告したのですか。文章量があると思われるので

飛ばします。

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏

の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。

源頼朝・源義経らの父。

絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)

源 頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期から鎌倉時代

初期の日本の武将、政治家。鎌倉幕府の初代征夷大将軍。

源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の

武将。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。仮名は九郎、実

名は義經(義経)である。河内源氏の源義朝の九男として生ま

れ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父

が敗死したことにより鞍馬寺に預けられる。

鞍馬寺 - 鞍馬弘教総本山 - Kurama Temple in Kyoto,

山号 : 鞍馬山 宗派 : 鞍馬弘教  寺格 : 総本山

本尊 : 尊天(毘沙門天王・千手観世音菩薩・護法魔王尊

創建年 : 伝・宝亀元年(770年)

開基 : 伝・鑑禎

正式名 : 松尾山金剛寿命院

 

平安末期、鞍馬寺の僧兵は比叡山の僧兵に数は劣るものの、

より勇猛だと讃えられていました。源義経(幼名牛若丸)は、

7歳頃に鞍馬寺に入山し、由岐神社の上手にあった東光坊で

昼間は仏道修行、夜は僧正ガ谷で天狗に兵法を授けられたと

いう伝説があります。

鞍馬寺は松尾山金剛寿院と号する。松尾は秦氏の松尾大社と同じ

名前。また鞍馬寺の本尊は毘沙門天で、これはミトラ神とされ

ている。ミトラ神とは秦氏が祀る摩多羅神を意味している。
義経が祀られる以前の白旗神社は寒川神社で寒川比古命が祀ら

れていた。
注、 寒川の寒はサビから来ているは、私のような「たたら製鉄」

愛好家にはやや常識のように受け止められている。

注、松尾大社も製鉄関連の神々が祭られている。

鞍は谷を意味し鞍馬は、谷間の意味。

【京都/国宝】鞍馬寺 - 鞍馬弘教総本山

2020/03/15

京都・鞍馬寺 竹伐り会式 2022/02/17

鞍馬寺は谷間にある。太古は海の底で、多様な岩石の

宝庫である。鉱物やたたら製鉄に関する技術を持って

いたと思われる。

 

鞍馬寺の信仰がわかる本殿地下「宝殿」 

壁には骨壺のようなものが壁一面に並べられている。
「清浄髪」といって、信徒達が自分の髪を壺に入れ、

奉納したもので一万個以上ある。清掃髪の一番奥に

は、尊天の仏像が安置されている。

なぜ自分の髪を納めるのか?というと、尊天のそば

に自分の分身を置くことで、尊天の力を頂きたいと

いう願いを込めるわけである。

 

陰陽師を祀る「鬼一法眼社」

鬼一法眼社の社殿。

鬼一法眼は京都一条戻橋の近くに住んでいたとされる陰陽師。
文武に優れる兵法家で、中国から伝来した兵法書「六韜三略

りくとうさんりゃく」を秘蔵していた。

一般に、牛若丸に兵法を授けたのは天狗だとされているが、

実は陰陽師経由で鞍馬に持ち込まれ、牛若丸と天狗の伝説

につながったのかもしれない。

「晴明印=セーマン」の五芒星シンボルに対して、出雲の

蘆屋道満が使ったシンボルは「道満印=ドーマン」と呼ば

れる六芒星。

鞍馬寺 六芒星


星曼荼羅を表す。中央にある、六芒星は籠目紋やタビデ

の星といわれて神聖視される。△は山、上昇螺旋であり、

▽は谷、下降螺旋であり、ひとつに調和されたものが六

芒星だという。この六芒星の中央の三角形は、火或いは

蛇を象徴している。〇は宇宙を表し、□は大地を表す
「尊天(そんてん)」は宇宙の大霊だという。

 

陰陽道については、もう少し詳しく見てみたいが、長

くなるので、次の機会にゆずりましょう。

沢野地区に開拓に入ったのは、東海地方の人々だという。

太田市教育委員会

では東海地方とはどこなのか。東海地方は4県ある特定

しなければ、頼朝、義経の父は河内源氏の源義朝

河内源氏とは源氏の本流

伊勢湾を挟んだ広大な地域が河内源氏の領域となる。

ここに流れ込む河川、木曽川、長良川、揖斐川見ただ

けでも他の王朝への道が見て取れる。又、矢作川、矢

作とは矢づくりの事らしいが、矢づくりだけでは、川

の名前としては小さいように思える。箭括麻多智

(やはずのまたち) のように、源氏の開拓豪族のよう

に思えてならない。「河内源氏は武の家として成長し,

主として東国地方に勢威をはった。」

コトバンク

そうして見ると沢野地区の人々が河内源氏の流れであ

るように思える。義経は河内源氏の子孫であるから、

沢野地区は同族の地である。義経が冠稲荷に立ち寄っ

ても何の不思議もない。

 

以上でこのページ終了とします

 

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